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岡本
岡本悟
(社会・政治)

1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部法律学科卒業後、鉄道省入省。運輸省観光局長、運輸大臣官房長、鉄道監督局長、運輸事務次官を経て参議院議員を2期務める(1965年-1976年)
1988年(昭和63年)没

河内
河内義就
(経済)

戦後の広島を拠点として活躍した代表的な建築家。昭和7年横浜高等工業学校建築科(現横浜国立大学)に入学し、中村順平の弟子となる。卒業後は逓信省経理局営繕課に就職し、山田守の元で仕事をする。昭和14年7月から終戦までは満州国郵政総局経理課営繕股技手仕官、技佐仕官として建築活動を行う。戦後は被爆都市広島の初の設計事務所であった暁設計事務所に所属し、広島の復興において旺盛な建築活動を行う。昭和26年には独立して「河内義就設計事務所」を設立し、広島を中心に設計活動を行うほか、日本建築学会や日本建築家協会など社会団体でも幅広くその才能を発揮した人物である。 河内が設計した木造建築として広島児童文化会館(昭21年竣工)と広島ガス本社(昭24年竣工)があるが、独立後の仕事としては廣島毎日会館(昭29年竣工)、宮島競艇場(同)、広島労働会館(昭33年竣工)、宮島ロープウェイ(昭34年竣工)広島ゴルフクラブハウス(昭35年竣工)な​ど多数。

1987年(昭和62年)10月5日没

二宮實
(経済)
二宮

​生来の動物好きが嵩じて中学卒業をきっかけに採卵養鶏業を創業、昭和8年請われて三篠信用組合(現・広島信用金庫)入組後も軍役に服するまで二足の草鞋を続けた異色の経歴の持ち主。昭和38年理事、昭和43年常務理事、昭和46年専務理事、昭和48年副理事長を経て昭和54年第4代理事長に就任。平成2年会長。この間(社)全国杉の子会連合会会長、(社)全国信用金庫協会副会長、広島県信用金庫協会会長、広島市社会福祉協議会会長など公職を兼務。昭和58年黄綬褒章、昭和60年紺綬褒章、昭和63年勲四等旭日小綬章を受章。若くして生け花やお茶、詩吟、謡曲をたしなむ一方絵画の収集家としても知られ、自宅を美術館にと夢見た話は有名。

堀江明
堀江明
(経済)

一中4修で京都の第三高等学校文科(仏文)に合格、その後東大経済学部を昭和11年に卒業。満鉄に入り子会社の鞍山昭和製鋼所から高橋達之助率いる満州重工業へ出向、終戦前の昭和19年頃には東辺道開発会社への赴任など辛酸を舐めた。戦後引き上げて広島市吉島町の丸新醤油の再建に携わっていたが、昭和30年、当時運輸省の広島運輸局長だった岡本悟(一中同期)が、大正5年一中卒の大先輩である広島電鉄社長伊藤信之(一中、三高、東大)と運輸省に交渉して首尾よく堀江の広電入りが決まったという逸話も不言実行型のその人となりを物語っていよう。昭和40年5月専務となり、同44年社長、同52年会長、同62年相談役に就任。昭和57年4月勲三等瑞宝章を受章。

1994年(平成6年)4月6日没

松尾
松尾孝
(経済)

「かっぱえびせん」で知られる菓子メーカー『カルビー』創業者。中学卒業前後に相次いで両親を失ったため卒業と同時に家業(穀粉製造販売)を継ぎ、戦中戦後の食糧難の時代も二度の事業蹉跌を乗り越えて昭和30年カルビー製菓」をスタート、当時アメリカから大量に輸入されていた小麦粉を使って〝かっぱあられ” を開発。 この売込みの為昭和42年ニューヨークの国際菓子博覧会に出展、さらに翌昭和43年には「やめられない、とまらない」のキャッチコピーとともにテレビCMを開始しブランド化に成功、以来爆発的に売れて昭和45年には単品売り上げで100億円を超える大ヒットとなり業界雀を驚かせた。 次に手掛けたのがポテトチップスで昭和50年9月に発売。3年目には単品で200億円の売り上げを達成し昭和55年頃にはポテトチップス全盛期を謳歌した。昭和51年藍綬褒章を受章。 昭和62年長男に社長の座を譲って会長となり、晩年まで自宅で製品開発に取り組んでいたが、持病のぜんそくが悪化し、​2003年(平成15年)没

若山滝美
若山滝美
(スポーツ)

​早稲田大学卒。大学在学中ベルリンオリンピックに水球選手​として出場(1936年)。陸軍主計大尉として中国へ渡るが戦病死。

1941年(昭和16年)没

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