top of page
​大正06年卒の人物
※下線のある名前クリックで画面TOPになります。
島 薫

​(医療)

旧制大阪医科大学卒。島病院初代院長(原爆投下時目標の相生橋に程近い島病院。現在は島内科)。広島信用金庫の2代目理事長(1971~1973年)を務めた。欧米での医学研究生活などを経て広島に帰郷。患者が低料金で治療・入院が受けられるように工夫したという、島病院は安い治療代と「盲腸もすぐ治る」と噂されたほどの手術のうまい病院として評判であった。

1977年(昭和52年)没

永山忠則
永山忠則

​(政治)

1924年中央大学法学部予科を卒業、女子師範学校の教師を務めた後、1926年20代で敷信村(現庄原市)の村長となり8期務めた。広島県会議員を経て1936年衆議院議員に初当選。戦後は占領政策で公職追放された。1954年新発足した庄原市の初代市長となったが翌1955年衆議院議員に当選して国政に復帰。以降、衆院選で11回の当選を果たし、1976年政界を引退するまで自由民主党に所属して防衛政務次官、社会労働・内閣委員長など歴任、1964年の第一次佐藤内閣で自治大臣・国家公安委員会委員長に就任した。国民健康保険中央会会長を長く務め、国民健康保険法の第一人者と呼ばれた。1969年勲一等旭日大綬章を受ける。1981年庄原市名誉市民。

1984年(昭和59年)没

​深山静夫

(スポーツ)

深山

慶応義塾体育会ソッカー部創始者。

1923年第6回極東選手権日本代表の関西倶楽部からディフェンダーとして国際Aマッチ2試合(フィリピン、中華民国)フル出場。その後広島に帰り、鯉城蹴球団創設に参加。鯉城蹴球団の中心的選手して1924年1925年の明治神宮競技会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回第5回天皇杯全日本サッカー手権大会)を2連覇。1928年進徳高女教員となり、大日本蹴球協会(日本サッカー協会)中国支部代表者として長年​運営にあたった。

bottom of page