大正05年卒の人物
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伊藤信之
(経済・スポーツ)
京都帝国大学卒。鉄道省(現・国土交通省)勤務の後、広島電鉄に入社、2代目社長となる。広島野球倶楽部(のちのカープ)理事長や広島商工会議所会頭を歴任。鯉城同窓会初代会長。
1984年(昭和59年)没
鈴木剛
(経済)
三高を経て京都帝国大学卒。住友銀行頭取(1947年から1952年)大阪テレビ放送社長、朝日放送社長、ホテルプラザ社長を歴任した実業家。住友グループの 社長会である白水会の名付け親でもある。 勲二等瑞宝章受章(1981年)。
1987年(昭和62年)没
田中敬孝
(スポーツ・経済)
戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。広島中在学中の1914年(大正4年)蹴球部創部に伴い入部、レフトウィングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙も同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。1年下に慶應義塾体育会ソッカー部創設者の深山静夫がいる。広島高等師範に進学、サッカー部の主将を務めた。1919年1月26日、第一次世界大戦後、広島湾の似島検疫所内に収容されたドイツ人捕虜との交流の一環として、広島高師グランドでサッカーの試合が行われ、広島高師チームも大敗したがドイツ人の技術の高さに驚いた田中は、陸軍の許可を受けて毎日曜日、似島に渡ってドイツ人捕虜からサッカーを教わったという。1920年卒業と同時に母校広島中学の英語教師として着任し、サッカー部を指導。関西中等大会に3年連続で決勝に進出し、1921年には全国中等学校蹴球選手権大会を4連覇中だった御影師範を下すなど、ドイツ人譲りの田中の指導は評判となって関西各地からの指導依頼が相次ぐほどであった。ただ在職2年で教職を退き、京大経済学部に転じているあたりの情報量は乏しく、晩年は広島貿易取締役会長などを務めるかたわら、同窓生相互の親睦と交流を図る場として昭和36年発足した月例のミニ同窓会「二木会」の常連であるばかりか、昭和52年の『広島一中国泰寺高百年史』編集時には編集委員長を務めるなど鯉城同窓会振興の功労者としても特筆しておきたい。
ちなみに、『百年史』225頁に「トンネル教場の思いで」、256頁に「万里の長城」、276頁に「紫の旗」の3編のコラムを執筆している。
1985年(昭和60年)3月6日没
谷川昇
(政治)
両親のアメリカ移住にともない広島中学卒業後、両親の元へ。アメリカ イリノイ大学に入学。ハーバード大学・大学院卒。関東大震災後帰国し、内務省入省、東京市役所に勤務。 1938年から市理事、市民局長、防衛局長を歴任。1945年 山梨県知事、更に内務省警保局長となる。1947年4月の総選挙に広島県2区から衆議院議員となり、1955年 総選挙も当選したが急逝し、わずか10時間程の差で当選証書を受ける事が出来ず愛惜された。公人としての活躍だけでなく、1950年(昭和25)広島野球クラブ㈱を創立して社長となった(現広島東洋カープ)。正五位勲四等を受章。
1955年(昭和30年)没
築藤鞆一
(経済・スポーツ)
中国新聞代表取締役・ラジオ中国社長。カープ発起人。
中村隆元
(スポーツ)
第1回全国中等学校優勝野球大会に広島中の一塁手として出場。大会第1号ホームラン(ランニングホームラン)を打った。
野津謙
(医療・スポーツ)
広島一中サッカー部創立時に入部。第一高等学校卒、東京帝国大学卒。医師(小児科医)、医学博士。サッカー選手、サッカー指導者でもあり、第4代日本 サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。藍綬褒章、勲三等瑞宝章、ナイト勲章(大英帝国勲章)を受章。
1983年(昭和58年)没